宝永の大火の後に、災いが生まれた。
縁見屋の娘は、男児を産むことはなく…二十六歳で死ぬ!
母も、祖母も、曾祖母も、その悪い噂のとおりの運命をたどった。
ある日、修験行者が愛宕山からやってきた。
天明八年、行者は娘を救うべく“秘術”を施そうとする…
それには京の大半を巻き込むほどの“力”が必要だった…
息子を失う夢を見たことがあります。泣きながら目覚め、隣で子供が寝ているのを見て
も、涙が止まりませんでした。
この本のもう一人の主人公、千賀も、理不尽な理由で我が子を失います。その原因を作
ったのは、我が子を失いたくないために、他人の子を身代わりにした正右衛門でした。
もし、私が正右衛門だったらどうするだろう?今でも自分に問いかけることがありま
す。自分が正右衛門でなかったことに、感謝すること。今のところ、それが答えです。
若い頃、火事の夢を見ました。炎の中を逃げ惑う夢です。あれは、空襲の最中だったよ
うに思えました。逃げ場所がない恐怖は、今でも思い出します。
幽体離脱(みたいな?)経験もあります。
キッチンの流しの上の棚から物を取り出そうとして、届かなかったので椅子に乗りまし
た。棚の扉は開けたまま。あまりの激痛に、一瞬、何が起こったのか分かりませんでした
が、額の丁度真ん中ぐらい、「第三の目」に当たる位置を、思い切りぶつけていたのです。
夜、痛みで意識がに額に集中し、なかなか寝付けません。ウトウトしていると、なんだ
か身体が軽くなり、ついにふわりと浮き上がったのです。
そのままどんどん浮いて行き、天井にぶつかりそうになって首を竦めたとたん、クルリ
と身体が一回転して、再び布団の上に寝ていました。
「縁見屋の娘」を読んでいただいた方は、お気づきのことと思います。火事もお輪の幽体
離脱も、作者の体験(?)に基づくものだと。
「この世」とか「あの世」とかは、人間が勝手に決めたもの。自然(神)の理の中では、
すべて繋がっているのかも知れません。
とは言え、この物語は、「神」と「人」との交流の物語でもあります。一人でも多くの方
に、それを感じていただければ嬉しいです。
三好昌子「縁見屋の娘」は、第十五回「このミステリーがすごい!」対象にて優秀賞を受賞した作品である。ただし、この“優秀賞”は、単なる次点扱いとは少しばかり意味合いが異なる。
読んで「すごい!」と絶賛の声が上がるようなミステリー作品を公募し、選出するのが本賞の目的であるが、送られてくる応募原稿は玉石混合。なかにはジャンルの定義を遵守していないものも少なくない。そうした原稿は大抵、ミステリーであるか以前に小説として難のある“石”の場合がほとんどだが、極稀に思わぬ“玉”に出くわすことがある。「縁見屋の娘」は、まさにその“玉”にあたる拾い物だ。
最終選考委員の選評を一部引くと、大森望氏は「ストーリーテリング、キャラクター、文章力は申し分ない」、茶木則雄氏は「小説的な完成度は今応募作品中、随一であった。登場人物一人ひとりへの目配り、展開の説得力、伏線の見事な回収、活き活きとした会話…どれをとっても文句の、つけようがない」と賛辞を惜しまない。(中略)
本作は「母と子」という大きなテーマを内包しているが、同時に、大きな過ちを正して断ち難い呪縛を断ち切ることができるのは、思いやりを持ち、利欲に走らず、礼を忘れず、道理に背かず、約束を信じられる者であり、そうした者にこそ闇を裂く一条の光がもたらされることをことをまっすぐに衒いなく示してくれる物語だ。
宇田川拓哉(書店員/ときわ書房本店)